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2008年11月29日 (土)

夕食は近くの食堂でinマレーシア

ホテルは辺鄙なところにあることは前に書いたが、道を挟んだ隣に小さなショッピングモールがあり、また、ホテルの裏側には住宅街と小さな食堂が何軒かあった。勿論ショッピングモールの中には食堂が何件かあり地元の料理や近隣の国の料理が食べられた。夕食は何時もこのどちらかで済ませていた。

私は海外に出たら必ず地元の食堂に行くことにしているし、日本食は食べない。日本食が恋しくなることもないから海外出張には向いている性格なのだろう。海外でも日本食しか食べられない人を多数見ているが、こう言う人は海外に出る資格は無いと私は思っている。食もその国の文化だからだ。幾ら観光地で景色や建物を見ても、そこに根ざした庶民の心、「食」がわからなければ、その国の文化に触れたことにならないからだ。

ショッピングモールの中には精々30ぐらいのお店しかなくて、その中の5店舗ぐらいが食堂だ。レストランと言うには少し室が落ちるから食堂と言う方が正しいだろう。地元マレーシアの料理の他にお決まりの中華料理やベトナム料理店などがあった。

一度だけベトナム料理店に入ったのだが、ドライレストラン(お酒を出せないレストラン)だったため、次からはお酒が飲めるマレーシア料理のレストランだけにした。

勿論帰りにはショッピングセンター内のスーパーで酒とつまみを買ってかえり部屋で飲んでいた。

ホテルの裏側は少し小高い丘のようになっていた。ここの食堂に行くためにはホテルの建物と敷地を迂回していかなければならないのだが、反対側に廻ってみると何と獣道のような細い道が出来ていて崖をよじ登れるようになっていた。

私と同じ様な考えの人がいて裏の食堂に通うためか、住宅街への近道として作って物だろう。

この道を発見したあとは裏の食堂に行きやすくなってチョクチョク崖登りをした。

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2008年11月27日 (木)

販社での昼食inマレーシア

滞在していたホテルはかなり辺鄙なところにあって近くには小さなショッピングセンターが一つあるだけだった。当然朝食は外で食べられないからホテルのレストランで摂っていた。幸いなことにホテル代には朝食代が含まれていたので自分の懐が痛むわけではなかった。

さて、販社はホテルから車で30分ぐらいのところにあり、ここも周辺には地元の人達が店を出してはいる物の食堂と言うほどもない所だった。従って、販社には従業員のための小さながらカフェ・レストラン作られていてみんなそこで昼食を摂っていた。

料理の品数は少ないが毎日違う料理が準備されているので、英語が出来る販社の社員と一緒にカフェ・レストランに行き説明を受けながら指をさして料理を頼んでいた。マレーシアもイスラムの国だから豚肉は食べない。鶏肉や魚の料理が多かった。何れも汁が多く、最後にはご飯に掛けて食べるものだ。

勿論スープもあったし、デザートもあった。

販社であるから当然、製品を管理する倉庫もあるし、修理する工場なども付属している。女性の工員もいるし、

清掃のおばさん達もいる。従って、この昼食を摂る時が現地の普通の人と談笑をする良いチャンスなのだ。時には女性工員の中に入って行ったり、幹部社員と話したりして現地に溶け込んでいく。

朝食を近くの食堂で摂れれば、それなりの現地の感覚はわかるのだが、この時はホテルのレストランで朝食を摂っていたのでその分を昼食時に発散させていたのだ。

同じ様な物を食べ、談笑していれば、事務所や工場であったときには挨拶も出来るし楽しいものだった。

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2008年11月25日 (火)

モスクの前のホテルinマレーシア

マレーシアでは二つの仕事をした事がある。一つはクアラルンプールの繁華街の仕事で、もう一つはブルネイの王族が関係する仕事だ。ブルネイには販社がないのでマレーシアの販社がクアラルンプールで代行していたためだ。

販社の所在地はクアラルンプールの郊外にあって繁華街に出るまでの所要時間は車で約1時間掛かった。

販社が予約してくれているホテルは何時も決まっていて、販社、繁華街とホテルが丁度三角形で結ばれるような位置関係にあった。普通は会社に近いところにホテルを取るのだが、なぜ遠いところにホテルを確保しているのかを販社の社長に聞いたことがあった。

販社には多くの日本人の技術者や営業マン、工場の支援者が訪れる。これらの日本人を全てホテルに泊めるからと言う条件で値段の交渉をしたのだそうだ。その結果、私が泊まったホテルが通常価格の半額で折り合ったと言うことだった。

周囲の環境も良いし、三流のホテルのように汚くもなし良いホテルが朝食付きで5000円程だからかなり割安だ。

我々の会社では宿泊費は領収書による事後決済だから使用している我々には得も損もない。会社としては経費が少なくて済むから良い方法なのだ。

このホテルにはただ一つ欠点が有った。それは直ぐ近くにモスクがあるので。マレーシアはそう厳格ではないにしろイスラム教徒の国だ。モスクがたくさん有るのは当たり前なのだが、ホテルの前にあるモスクはかなり大きなもので、毎朝5時になると決まって大音量のコーランの読経が流れてくるのだ。恐らく宿泊客はこのコーランの読経で目が覚めてしまうに違いない。

私も最初の朝はビックリして目が覚めた。イスラムでは当たり前であっても我々には非日常的だ。しかし、イスラムの国に行けばそこの流儀に入っていかなければならない。不思議なことに2~3日は気になっていたこの朝の礼拝の読経も日のうちに気にならなくなってしまった。人間の順応性とは素晴らしいものだ。

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2008年11月20日 (木)

サンファン観光inプエルトリコ

仕事が一段落付いた時、地元の販社の担当者がサンフアンの観光に連れて行ってくれた。小さな島(青森県と同じぐらいの大きさ)だしあまり見るところがないだろうと思っていたが、最初に連れて行かれたところは「モーロ要塞」だった。周りが海だし、近くには多くの島がある。その一つの島々が独立国であるのだから要塞が有ってもおかしくはない。

要塞の入り口に着くまでに物凄く大きな広場があり、そこを歩くこと7~8分で要塞に着いた。この要塞は岬の先端にありかなり大きな物だった。中には勿論砲台があり、兵舎があり、トンネルがあり独房まであった。ここの断崖絶壁から下の海を見ると「こんな所を登ってこられるのか?」と思うほどの物だ。ただ反対側を見ると城壁の下には古い民家の屋根が直ぐ近くまで迫ってきていた。「オールド・サンファン」だ。

矢張り、ここがプエルトリコの一番の目玉なのだろう。

次に彼は大きな港に連れて行ってくれた。プエルトリコはカリビアンクルーズの拠点でもあるから桟橋は物凄く大きい。横浜港の大桟橋より長い桟橋があった。ここに10万トンを越す大型の客船が2隻停泊していた。

案内してくれた彼も2人の子供を持つ親でかってこのような大きな船でクルージングをしたことがあると自慢していた。

この時は夢にも思わなかったが、私も会社生活で最後の仕事がこのような大型客船での仕事で一週間も11万トンの船に乗ったのだ。

その他に街中を案内してくれたが、これと言って目に付く物はなかったが、矢張り観光で潤っている国だけあって海岸には大きなホテルが並んでいた。私は道を挟んだ小さなホテルに滞在していたが、時々、これらのホテルの中を通って海岸まで出たり、海岸で飲み物を頼んだりしていた。

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2008年11月19日 (水)

大変な移動作業inプエルトリコ

前回書いた大型スクリーンはトラックの上で組み立てた。今流行の全自動でスクリーンが展開する移動型のスクリーンではなく。トラックで運んでイベント会場に吊り下ろす原始的なつくりだ。従って、スクリーンの上部には吊るためのアイボルトが付いているし、下には大型のキャスターが付いている。

車の上で組み立てたのには訳があった。組み立てが完成したら、直ぐに倉庫に入れた。これは車の上に何時もおいておくことは出来ないためだ。常時は倉庫に格納してイベントごとに車に乗せて運ぶように設計していたので、この方法に間違いがなく格納できるかの確認のためと調整をするためだ。また、サンファンは雨が多いので屋外での調整には無理があるためだ。

さて、実際に組み立てを完成させ倉庫に運び入れる段になると大事だった。トラックの床の高さと倉庫の床は同じ高さに設計されていたのだが、何しろ鉄の塊のように重いのだ。キャスターが付いているとは言え、そう簡単に動かせる物ではないし方向転換もままならない。10人ぐらいの作業員で押したり引いたりしながらやっと定位置に移動させた。これをイベントごとにやるのは大変な移動作業だ。

屋内の定位置に設置して、その前の荷物を全部片付け調整作業に入った。毎日雨があったが関係なく作業が出来た。この間に販社の営業マンはたくさんの関係会社に声を掛けていたようで毎日何組かの見学者が訪れてきて画面の評価をしていた。幸いなことに直ぐにイベントに使いたいというクライアントが現れて営業マンもホッとしたことだろう。

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2008年11月16日 (日)

奇跡的な出来具合inプエルトリコ

オーランドでの打ち合わせの後でプエルトリコの首都サンファンに飛んだ。これはスクリーンを収容しておくところの確認と組み立てる場所の確認、道具や設備の確認のためだ。

Img033_3

 

この時はサンファンからダラス経由で帰国した。

日本での進捗、アメリカでの進捗、サンファンでの準備の進捗などをメールでやり取りしながら、製品の現地到着日が確定した時点で全員が現地で再集合する日にちを決めて、今度はニューヨーク経由でサンファン入りした。

現地の工場の屋外の広場でアメリカ製のフレームと日本製のスクリーンのドッキング作業を行ったのだが、これが中々大変な作業だった。大きな品物にもかかわらず1mm、2mmの制度を要求される物を違う国で違う業者が作って初めてドッキングさせる訳だからドキドキするのは当たり前だ。しかも、フレームは箱状でこの中に前面からスクリーンを入れていくのだから相当慎重な作業をしなければならない。

クレーンで吊り下げながら人力で水平方向に移動していく。スクリーンは2分割されているのでしたので上部に隙間のある下の部分は比較的スムースに取り付けることが出来た。しかし、スクリーンの上部ブロックは本当に隙間のない部分押し込まなければならず、四苦八苦の作業だった。

最後はクレーンで重さを支えてはいるが数ミリの隙間だけのところに人力で押し込むという作業をやり遂げた。

サンファンは北緯19度ぐらいだから亜熱帯だ。この作業の間にも雨があり全員で防水シートを被せたりして、機器を守るなど天候との戦いでもあった。

フレームにスクリーンが取り付けられると誰とは無しに拍手が起こり、関係者同士が握手していた。それだけ難しい作業であったし日本とアメリカの共同作業としては奇跡的な出来栄えだった。

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2008年11月14日 (金)

カリブ海での仕事inプエルトリコ

平成12年(2000年)にプエルトリコで仕事をした事がある。プエルトリコはアメリカの準自治州のような扱いの国(正確にはプエルトリコ米国自治連邦区となる)で私の勤めていた会社の販売網ではアメリカの販社が管轄していた。

工業的には遅れていて観光や農業で立国されている。ここのラム酒は有名だ。

工業的にはあまり技術が無いので、大型スクリーンを作るためにはアメリカの力を借りなければならなかった。

従って、事前の打ち合わせや準備は全てアメリカ国内で行い、最終的な組み立てだけを首都サン ファンで行った。

よりにもよって、この大型スクリーンは自動車と一体型ではない物の自動車に載せて移動させようとする物で、自動車との関係、高さ制限等があり、技術的にはかなり難しいものだった。

アメリカの販売会社がユニバーサルスタジオの関係から、ここで舞台装置を担当している会社を探してきて、この会社にスクリーンを入れるフレームを設計製作してもらうことになった。

この会社はフロリダのオーランドにあったため、直ぐにオーランドに飛んだ。プエルトリコの関係者、アメリカの販売会社、フレーム制作会社が集まって大型スクリーンの全体像から車に載せるためにどのように分割して運ぶのか、どのように組み立てるのか、誰がどの部分を担当するのかなど二日間にわたり会議を行った。

その結果、日本では2分割したスクリーン本体をつくり、アメリカではこのスクリーンを入れるフレームを作り、

プエルトリコでトラックと発電機を調達することになった。

アメリカの会社とは機械的な詳細な寸法、インターフェイスを詰め、プエルトリコの会社とは電気的なインターフェイスを詰めた。続きは次回。 もう一つのブログは ここから入れます。

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2008年11月11日 (火)

英国航空のジャンボ機と並行飛行

時期は覚えていないがヨーロッパに盛んに出張していた頃、ロシアの上空で後から成田を出発したと思われる英国航空のジャンボ機に追い抜かれるのを窓越しに見たことがあった。

ヨーロッパに行く場合には普通オランダのスキポールで乗り換えることが多かったから恐らくその時もスキポール行きに乗っていたと思われる。このときの使用機材は定かではないがA300ではなかったかと思う。

翼端にウイングレットがあり、ここに鳥のマークが書かれていた。あまり大きな飛行機ではなくDC10にはウイングレットがないから多分A300に間違いないだろう。現在はB777が使われているからA300の時代はかなり前のことだ。

成田を出発して5~6時間ぐらい経ったころ機長の機内アナウンスで「英国航空のジャンボ機が当機の左側から当機を追い越していきます」とあった。席を立ちドアの窓から外を見ると左側のほぼ同じ高度の直ぐ近くを黒い色をした英国航空のジャンボ機の前半分が見えた。後ろ半分は自分が乗っている飛行機の翼に隠れていて見えなかったからかなり近くを飛んでいる事になる。こんなに近くを飛んでいいのかなと思うぐらい近かった。

大空でこんなに近くで並行飛行を見たのは初めてだった。今まで同じ高度で何本もの飛行機雲の合間を飛んだことはあるが実際の飛行機が間じかに並行飛行しているのを見て興奮し、しばらく見ていた。

機長が「追い越す」と言った通り、ジャンボ機は徐々に当機の前に出て見えなくなった。

因みにB747-400の巡航スピードは913km/hA300の巡航スピードは848km/hだから当然のことだ。

英国航空だから恐らくロンドン行きだったのだろう。ヒースローとスキポールでは飛行機で1時間ぐらいは掛かるから到着は同じぐらいになるのだろうと思っていた。

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2008年11月 9日 (日)

本場のシシカバブーを食べるinイスタンブール

トルコの代表的な料理の一つがシシカバブーだ。道を歩いていると小さなお店が並んでいて、それぞれのお店に肉団子のような物がぶら下がっている。この肉塊がユツクリと横方向に回転していてその横からランプのような

熱源でこの肉を焼いている。肉汁がタラリタラリと落ちていて実に良い匂いだ。

シシカバブーは元々インドから渡ってきた料理だと聞いた。トルコではケバブと発音していたが、焼き鳥のように串にさして焼いた物と。前述のような肉塊を回転させながら焼く物などをイスタンブールでは見た。

ある日、販売会社の担当者に食事に連れて行ってもらった。私は「ごく普通のトルコ料理が食べたい」とお願いしたら、あまり大きなお店ではないケバブのお店に連れて行ってくれた。恐らく彼がひいきにしているか、彼が美味しいと思っているお店に違いない。外国人にはこの辺の微妙な感覚はわからないから、地元の良く知っている人について行くのが一番賢い方法だ。

お店の店先には何本もの肉塊が回転している。皆違う肉だと言う。私にはどれが何だか分からないので注文をしてもらった。

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こんがり焼けた肉塊の外側を大きなナイフで薄く削っていくと笹の葉のような肉片が下に落ちる。これを集めた物がケバブだ。ケバブを肴にビールを飲んだ。ビールの銘柄は「EFES」だったような気がする。

ケバブはとにかくビールに良く合うのだ。そのまま食べるし塩味が強いがビールのツマミには丁度良い塩加減だからだ。このほかに何かサラダのような物やヨーグルトのような物を食べたがあまりよく覚えていない。

とにかく、本場のシシカバブーを食べられたことに満足したしだいだ。

後日、メルボルンのライゴン通りやアテネでも同じ物を食べた。

写真はドネリケバブでウィキペディアからの転載です。

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2008年11月 7日 (金)

石が投げられない子供達inイスタンブール

こうして時間潰しの散歩をしていたある日古い造船所のところを通りかかった。スロープのところまで降りて行き、古い船を眺めていた。丁度下に石ころがあったので、それを拾い上げて海に向かって投げていた。その内に

平たい石を見つけて水切りを始めた。しばらくすると、近所の子供達だろうか物珍しそうに寄ってきて私を眺めている。

私は子供達を呼び石を拾って「投げてみろ」と言う仕草をした。水切りの仕方を手取り足取りで教えてみた。

子供達は石を投げているのだが、どうも様にならない。石が投げられないのだ!!

具体的に言うと小学校の低学年の女の子に物を投げさせると手と足が同期していないように右手で投げるのに踏ん張る利き足の左が出るのではなく右足が出てしまうのだ。

「あぁ、この子達は物を投げるという動作を知らないのだな!?」と理解した。その後何度やっても上手く行かない。子供も私もあきらめてやめてしまった。

トルコはサッカーが盛んだ。恐らくは足でボールを蹴ることには長けているのだろうが、ボールを投げるという基本動作は日常的にはないのだろう。国により随分違う物だ。

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2008年11月 5日 (水)

魚のサンドイッチを食べるinイスタンブール

イスタンブールでの仕事は現地の販売会社と情報源の会社の両方の都合が合わないときにはOFFになるので毎日が事務所に詰めているということではなかった。OFFの時には暇を弄びホテルの周りを散歩したりしていた。

暫くすると段々と遠出が出来る道を覚えてブルーモスクに行ったり、海辺を散歩できるようになった。

Photo_3

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海辺に出て、近くに有った橋を渡り人々が生活圏にしている露店を覗いたりしていた。好奇心が旺盛な私はそこで取るこの人達が食べている物に興味を持った。露店で売っている魚のサンドイッチだ。

しばらくみんなの様子を見ていて買い方や食べ方を観察し、勇気を出して自分で買ってみた。勿論、現地の言葉が話せる訳ではないので、皆が出しているお金と同じお札を出しサンドイッ

チを買った。露店に常備してあるケチャップのような物をかけて食べてみた。旨かった!! 矢張りこれは現地の名物なのだ。以前にスキポール空港で食べた魚のサンドイッチと同じぐらいの味だった。あまりにも旨かったので二つ目を食べようかと思ったが

原も身のうちということで我慢をした。

帰りに橋の上で多くの人達が魚を釣っているのを見つけてしばらく観察していたら、先ほど食べたような魚が掛かってくる。「アレレ、まさかここで釣った魚をお店で出しているのではないだろうな?」と思って見たりした。

それからは時間が有ればここに来て魚のサンドイッチを食べブルーモスクを見学していた(ちなみにブルーモスクは一つではなく幾つか有ります)

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2008年11月 3日 (月)

アジアとヨーロッパを行ったり来たりinイスタンブール

今度はタイから摂るこの話に移ろう。タイで仕事をするより大分前にトルコの件名があった。しかしこの件名は

取れなかったので自分史の件名リストから抜けている。ただ、このときも色々な事を経験をしたので二つ三つ書いてみたい。

トルコの玄関口は矢張りイスタンブールだ。ご存知の方もたくさんいると思うがイスタンブールはボスポラス海峡でアジア側とヨーロッパ側に別れている。私は2回イスタンブールに行ったが、ホテルはどちらもヨーロッパ側にあった。販売会社もヨーロッパ側にあったのだが、さらにその下の情報源の会社はアジア側に位置していた。

従って、ホテルから一旦販売会社に入った後で情報源の会社に行くためにはボスポラス海峡に掛かる巨大なアーチ型の橋を渡ってアジア側に入ることになる。毎日これの繰り返しで1回の出張で5~6回もアジアとヨーロッパを行き来していた。車の中で販売会社の担当者が話してくれたことによると、この巨大なアーチ型の橋も日本の建築業者が掛けたということである。私の記憶では当時はこの橋がボスポラス海峡に架かる2本目の橋として開通したばかりであったような気がする。この橋の開通に合わせて橋の両側に高速道路が建設されていて、アジア側に入ると何にもない丘がしばらく続いていた。ヨーロッパ側で高速道路に乗り、橋を渡ってそのままアジア側に入り、何もない丘を見ながら小1時間ぐらい走ってから、また一般道に降りるのだが、こちら側も道幅は狭くゴチャゴチャしていたと思う。どちらも整然とした区画整理は出来ておらず汚いゴチャゴチャとした街だという印象しかない。道が細く曲がりくねっているのは恐らく中世の戦略戦争の守りのための方法がそのまま残った物だろう。

ヨーロッパ側の町並みも相当にゴチャゴチャしていて細い路地の連続である。ホテルもそうした町並みの丘の上にあって結構有名ではあるが(スイステル)、とにかく1回では行き方が分からないぐらい複雑な細い道を通って行った。

数日して地理に慣れてくるとそれでも徒歩で歩き回れるようになるから不思議である。

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