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2009年11月30日 (月)

悪戯坊主だった幼稚園の頃の思い出

朝鮮で終戦を向かえ、その年には何とか帰国していた、父は軍人で有ったためそのまま抑留されたが長い抑留ではなく追いかけて帰国していた。

恐らくその翌年だと思うので私が5歳ぐらいのときだと思う。近くの国立大学の付属幼稚園に入園することになった。私はかなり活発で悪戯坊主だったようだ。

国立大学は軍隊の広大な敷地の中にあり、幼稚園から小学校、中学校をこの敷地内に持っていた。
まさに森あり、谷ありのような敷地の中に点々と兵舎や車両の格納庫、防空壕などが点在していた。

園舎はその中のあまり大きくない一つを利用していた。しかし、園舎の前には野球グランドが二つぐらいできる広場が有り、その他に、テニスコートが2面、200メートルのトラックが1面、バスケットボールのコートが1面、中央に石のお宮がある鎮守の森のような木が茂った一角があり遊ぶのには十分な広場が有った。勿論、幼稚園だけで使っているわけではなく、小学校、中学校との共用だ。しかし、それでも十分な広さが有った。

教室は兵舎をそのまま使っていたので広くて窓もたくさん有り、窓までの高さも今の学校や幼稚園に比べると高かった。

ある時、男子園児の1人が開け放たれたその窓に上り、外に向かってオシッコをした。それが子供達の間で大騒ぎになり先生まで知れ渡る事になった。早速先生がやってきて、その園児を叱って、なぜその様な事をしたのかを問いただした。その園児は何と私に命令されてやったと言ったのだ。

私には全くその様な覚えはなかったが、私まで巻き添えにされて叱られてしまった。
恐らく、その園児はガキ大将だった私に言われてやったと言えばそんなには叱られずに済むとでも思ったのだろう。こちらはとんでもないトバッチリを受けたが、当時の私がガキ大将で悪戯坊主だった証だろう。

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2009年11月28日 (土)

64年前の話in テジョン 2

幼心に覚えている事がもう一つある。それは、良く近所の家の子供達と遊んだ事だ。

近所の子供とは同じ様な官舎に住んでいた家族の子供であったり、近くの民家の子供達だ。

この頃は朝鮮半島が日本の統治下にあり朝鮮人も創氏改名で日本名を名乗っていたのだろうが、近所の子供は朝鮮人の子供も含まれていた。

私には誰が官舎住まいの子で誰が朝鮮人の子供であれどうでも良かった。子供同士で泥んこになり遊びまわる事で満足していたし、母親も父親も「あの子とは遊ぶな」とは決して言わなかった。

官舎住まいの子供達は軍人の子供であり比較的裕福な環境に有ったことは事実だ。私も大きな三輪車を持っていて、これを皆に使わせる事でガキ大将になっていた様に思う。

当時、三輪車と言えば高級な遊具だ。皆、列を作り並んで順番を待っていたし、楽しく遊んでいた。

これは自慢している訳ではなく、日本人も朝鮮人の子も皆等しく同じ遊具で遊べたという楽しい思い出だ。

私の頭の中にある記憶では、その遊んでいる近くに大きな柳の木があり、近くにはナツメの木が有った様な気がするのだ。柳の木はそれほどインパクトはないのだがナツメは実が食べられる。

皆でその実を食べた記憶がある。赤くて可愛い実だが、何処となくリンゴのような感じの触感を今も思い出せる。

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2009年11月26日 (木)

64年前の思い出話in テジョン

テジョンとは韓国の大田のことである。64年まえに私達家族は私の父の仕事(陸軍航空隊の将校)でテジョンの近くのユソン(儒城)で生活していた。私が4才ぐらいのことだから確かな場所は分からないが、私の脳裏に焼きついている川の景色や山(?)の景色が後日仕事でユソンを尋ねた時にピッタリと一致したので間違いないと思う。

ユソンは現在でも温泉で有名だ。その頃の記憶も豊富な湯量の温泉に毎日浸かっていたので100パーセント間違いなくユソンで暮らしていたのだろう。

この頃は軍隊の官舎での生活と温泉施設での生活の思い出があり、官舎での生活の中で一番の思い出は相当に悪い悪戯をしたことだ。

当時私には二つ離れた妹がいて、妹はヨチヨチと歩いていた。私はこの妹に台所にある茶碗やお皿を運ばせて窓から落として割れるのを面白がっていたのだ。

官舎は平屋建てで窓の下はジャリが引いてあった。窓から茶碗や皿を落とせは当然この砂利の上に落ちて大きな音を出して割れる。私はこれを面白がってやっていたのだ。

妹は何も知らずにヨチヨチと台所から運んでくるだけで私1人が面白い思いをしていたのだ。

ここまでは覚えているが、当然叱られただろうその時のことは全く覚えていないのは不思議な事だ。

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2009年11月24日 (火)

ブリュッセルにも有った飾り窓

長いことベルギーで仕事をしている間にブリュッセルに駐在していた甥っ子とブリュッセルの観光をしたことは前に書いた。この時初めて目にしたのが「小便小僧」と「小便少女」と言うこともその中で触れた。

そのときに書かなかった事が「飾り窓」の事だ。

ドイツのハンブルグ、オランダのアムステルダムの「飾り窓=レッドライト」はあまりにも有名だが、何とブリュッセルにも「飾り窓」は存在していた。

甥っ子と昼食をとりアチコチ観光していると日も暮れてきた。甥っ子が「飾り窓があるから見に行こう」と言うので彼の車に乗って見に行った。確かに飾り窓は存在した、が、アムステルダムの「飾り窓」に比較すると何と細々と営業している事か!!

アムステルダムの場合は町の一角が全部「飾り窓=レッドライト」やアダルトグッズのお店であり、その一帯が観光地化しているのに対して、ブリュッセルの場合は薄暗い町の中にポツリ、ポツリとレッドライトが付いているだけで、ここだと言われなければ分からないし状態だった。

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それでも店の前を車で通るとピンクの光の中の小部屋に座っていたから間違いなく「飾り窓」なのだ。オランダのように公然と認められているのか、はたまた、日本や韓国の様に法律で禁じられていて違法に操業しているのかは分からない、しかし、厳然と「飾り窓」は存在していた。

世の中で一番古い商売と言われる「性商売」だから、恐らくヨーロッパでは何処の町にでもあるのだろうがブリュッセルのこの様な「飾り窓」を見て正直驚いた。

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2009年11月20日 (金)

いかがわしい飲み屋inベルギー

1996年にベルギー北部でオーストラリア向けに車載形のスクリーンを作っていた事は先に書いたが、この時に泊まっていたホテルの周辺にいかがわしい飲み屋があったことは書いてなかった。

ベルギーは基本的に何処に行っても田舎の感じがするのだが、このとき泊まったホテルも田舎の旅籠と言う感じのものだった。ホテルは自動車道から奥まっていて、その間に駐車場があった。

日が暮れて辺りが薄暗くなってきて時に、自動車道の向こう側にネオンがともった。名前は忘れたがビールの文字が目に入ったので飲み屋に違いないと確信した。

周辺にレストランもないし、1人で飲むのだからと思い、その店に入った。薄暗い小さな店だった。思いの作りとは裏腹に中は意外とこじんまりしていた。

誰もいない店内!! カウンターに座りカウンターを叩くと奥からマスターらしい男の人が出てきた。

地ビールに何があるかを聞いていつも飲んでいたミルキーなフーガーデンビールを頼んだ。

コップに注がれたビールをチビチビと飲みながらつまみのクラッカーを口にしていると30才前後の女性が出てきた。日本で言えばホステスだ。

世間話をしながら何処から来たのか聞いたらロシアだという。その女性はビールをせがむ訳でもなくカウンターの向こう側で私と話をしている。暫く、話が途切れ、私も2杯目ビールを頼むと、女性がサーブするのではなくマスターらしき男性が2杯目を持ってきた。それと同時にその女性がカウンターの後の部屋に下がり、別の女性が出てきた。この女性もロシアから来たという。暫くするとこの女性も裏の部屋に下がり別の女性が出てきた。

ここで初めて、「あぁ~、そう言う事か!!」と理解した。この女性達はホステスではなく別な目的で私に近づいていると感じたのだ。ことによるとこのお店もかなりボッタクルのではないかと言う恐怖心がよぎり、恐ろしくなってビール2杯で引き揚げる事にした。

会計を頼むと意外と良心的で、普通のお店で飲むのと同じぐらいの料金だった。チョッといかがわしいお店に入ってしまったが、これも良い経験だった。

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2009年11月18日 (水)

スリーマイル島の上を飛ぶinボルチモア

1990年ぐらいの事だったと思う。矢張りニューヨークを基点に仕事をしていたときにボルチモアの小さなフットボール練習場の仕事があり販社のアメリカ人と日本人2人でボルチモアに飛んだことがある。

この時は、ニュージャージー州のニューアーク空港からボルチモアへの往復だったと記憶している。

距離が近いし、小さな、いわゆるコミューターと呼ぶ飛行機での往復だった。乗客が15~16人ほどしか乗れないプロペラ機だ。

ボルチモアでフットボール練習場のオーナー達と打ち合わせが終わり、帰る段になり、販社のアメリカ人が急にせかしだした。「早くしないと飛行機に乗れない!!」と言いだしたのだ。せかされるままレンタカーに乗りボルチモア空港に急いだ。

アメリカでは空港に幾つものレンタカーの窓口があり、ここで手続きをして車が止めてあるところまではシャトルバスで移動するのが一般的だ。つまり返却する時は駐車場に返却してからシャトルバスでターミナルへ戻らなければならない。

この時も同様に時間が無い中でシャトルバスに乗りターミナルに付いた。販社のアメリカ人はカウンターに走って行き、手続きを済ませて3枚のプラスチックの板を持ってきた。これがチケットだと言う。航空会社の人に付き添われ急いで登場口まで行った。飛行機は目の前で既にエンジンをかけて我々を待っていてくれた。

空いている席にそれぞれ座ると同時に飛行機は動き出した。これで一段落だ、このコミューターは3列の客席で片側が2列、反対側が1列でまるでマイクロバスのようなものだ。

飛行機が離陸し、暫くすると発電所の徳利型の煙突が見えてきた。販社のアメリカ人は「あれがスリーマイル島の原発だ」と教えてくれた。私も「あぁ、これがかの有名な原発か!!」と眺めていたがこの時は水蒸気も煙も上がっていなかった。

スリーマイル島の原発がなぜ勇名なのか知らない人も居ると思う。

ここの原発は1979年3月に炉心溶融(メルトダウン)と言う爆発寸前の大事故を起こしているのだ。普通の商業用原発で初めての大事故で当時は随分ニュースになったものだ。ロシアのチェルノブイリ原発でも更に大きな事故を起こしているが、スリーマイル島の原発事故から7年後のことだ。

事故から10数年経っても手も付けられずに放置されている原発を見て、こんな危険なものの上空でも飛行機は飛ぶのだ!! と恐ろしくなった。

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2009年11月16日 (月)

「ビッグ・ダディー」in ニューヨーク その後の話

このビッグ・ダディーの人には後日談がある。

私と仕事をしていたある日突然彼が会社に来なくなった。私の交通の足がなくなってしまったのだ。我々出張者は現地で車を運転してはいけない規則になっているし、私は元々免許を持っていない。

会社に相談して、即日別の担当者を当ててもらったが、本当に迷惑な話だ!!

後から会社の人に聞くと彼は近くにある韓国系の有名会社に転職したと言う。私に言わせれば、「韓国の会社も良くあの人を採用したな!!」と言う感じだった。

アメリカ人は簡単に転職すると言うが現実に知っている人が転職したのを目の当たりにしたのは初めてだった。彼は恐らく目先の給料の良さに目がくらんで転職したのだろうが、私と一緒に仕事をしていて、彼の能力を知っている私としては、彼がその会社にどの様に自分を売り込んだのかを知りたいところだった。

次の出張の時にまた面白い話を聞いた。あのビッグ・ダディーが数週間の内に韓国の会社を解雇されてしまい、再び私の会社の現地法人に雇ってくれと泣きついてきていると言うことだ。

幾ら韓国の会社だとはいい、仕事を出来ない人を雇っておく事はできないだろうし、彼がまた我が社に再雇用を依頼してくるなどとは本当に虫のいい話をしてくるなどとは思いも拠らない事だ。

結局彼は我が社にも再雇用されずに他の職を見つけたようだが、私の長かった会社生活の中で経験したひとつの間の抜けた話である。

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2009年11月14日 (土)

「ビッグ・ダディー」in ニューヨーク

前回の豪華客船での仕事が私の現役時代の最後の仕事であり、一通り思い出したことが書き終えたので、これからは今まで書き残した事、新たに思い出したりした事、家族で旅行した事について書いていこうと思う。

最初はニューヨークで体験した「ビッグ・ダディー」の話しだ。

普通、「ビッグ・ダディー」を直訳すれば「大きなお父さん」となるが、私は「偉大なお父さん」と解釈している。

ニューヨークで仕事をしていたアメリカの販社の1人にとても「ビッグ・ダディー」に似つかない「ビッグ・ダディー」が居た。

彼とはニュージャージの事務所で知り合い、彼が私の仕事を補佐してくれる事になった。そのために彼の車ら乗って良くマンハッタンまで出た。その都度目にするのが彼の車のダッシュボードに「Big daddy」と書いた紙切れだ。

私は彼が独身だと思っていたのである時、「これはだけが書いたの?」と聞いた事がある。彼は誇らしげに即座に「息子だ」と返事をしてくれた。

笑ってはいけないのだが、その時私は「クスッ」と笑ってしまった。なぜなら息子さんには「Big daddy」かも知れないが、我々から見ればおよそ仕事が出来ない人だったからだ!!

事務所では私の机の所に来ては「Hero, これはどうすれば良い?」・・・といつも聞きに来ていたし、仕事の出来も遅い!! 更に現場に出て現場の監督をさせようとすると、座り込んで作業者の監督と話し込んでばかりいる(マンハッタンでは組合との関係で基本的に我々はスクリュードライバー1本ももてないのだ)。更に私が頼んだ仕事は途中で放り出しているし、夕方、5時になるとソワソワと帰りたがるそぶりをする。全く仕事が出来ない人だったからだ。

しかし、彼には彼を「ビッグ・ダディー」と慕う息子が居たのだ。家では本当に「ビッグ・ダディー」なのだろうか?  私には彼の家の事情は分からないが、彼を「ビッグ・ダディー」と慕う子供にも会いたかったし、話もしてみたかった。家では違う顔を持っていたかもしれないからだ。

しかし、彼の自動車に乗るときはいつもこの「Big daddy」と書いた紙が気になっていた。

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2009年11月 9日 (月)

豪華客船での仕事inニューヨーク・・・完成・引渡し

次の航海には私は乗っていなかったが、私の代わりに来た調整技術者とジョンで調整を完了し、船員のオペレーターに使用方法のトレーニングを行った。

ユニットを取り付けてしまえば天候に関係なく仕事が出来る。フレームの中は勿論防水だし風も来ないから自由にアクセスしコントロール機器や電源機器を触る事が出来る。

映像の調整はリモート装置を使って行った。画面の前面にいないと画面の良し悪しを判断する事が出来ないし色合いも調整できない。そのため甲板の壁に調整用のケーブルの取り出し口(コンセント)を設けておいたのでここにリモートコントローラを繋いで画面の調整を行った。

船の中には大きな映像送出室があってそこから映像を流してもらったり、持ち込んだ機器をフレームの中に設置して色々な映像や文字等を出したり画角の設定を行ったり、切り替えの確認等を行った。

この大型スクリーンの目的は乗客に映画を見せるための物であり、日中日光浴をしながら映画を見たり、夜は星空の下で映画を見る等の娯楽の範囲を広げるための物である。

そのために日中の太陽下での画質の評価が重要になってくる。勿論入力されるソースの画質にも左右されてしまうために自前で持ち込んでプロモーション用のビデオを再生し、スクリーン元来持っている性能を確認した上で船の映像送出室から送られてくる映像がどの程度劣化するかなど確認しながらオペレーターに認識させていった。

調整は1週間の航海で完璧までに仕上がり、最後の日にはこのスクリーンを専門的に運用するオペレーターと責任者に取り扱い、緊急時の対処方法など綿密なトレーニングを行った。

上の写真は調整中のスクリーン、下の写真はトレーニングが終了したときの記念の物だ。中央がジョン。

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その上で、正式な引渡し書にサインをもらい船側に引き渡した。私はこの全ての仕事に立ち会っては居なかったが、メールで連絡を取り合いジョンの協力を得ながら調整技術者をコントロールして実施した。

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2009年11月 6日 (金)

豪華客船での仕事inニューヨーク・・・選手交代

船内でのチェックも終わりジョンと一緒に下船した。仕事の途中で投げ出すようで心残りだったが日本での仕事がありやむをえなかった。ここで、調整技術者と選手交代と言う所だ。

調整技術者は前夜ニューヨークに到着していて、彼との引継ぎのために彼が泊まっているホテルに立ち寄り、私はそのままJFK(ジョン・F・ケネディ)空港に行くことにしていた。その日の飛行機で日本に向かう事になっていた。

下船後、タクシーを拾い、調整技術者の泊まっているホテルまで直行した。マンハッタンの中は一方通行が多くてホテルまでは近い物のかなり時間を要したが、ホテルの前で調整技術者が待っていた。

私の飛行機の時間の関係でホテルでユックリ引継ぎできなかったので彼にホテルをチェックアウトしてもらい、彼の荷物もタクシーに積み込みJFK(ジョン・F・ケネディ)空港に行くタクシーの中で引継ぎ事項を確認した。

仕事が若干遅れてたてのでその分も彼にお願いし、後は調整とオペレーターへのトレーニングが残っている。彼は英語があまり得意ではないが、機器の使用方法が少し分かるジョンとのタッグでこなしてもらう事にした。

JFK空港までマンハッタンの中心部からは約1時間だ。この中で彼に残りの仕事を伝え、ジョンには彼の面倒を良く見てもらう事をお願いした。

JFK空港に到着して飛行機の時間には何とか間に合った。調整技術者とジョンはまた船に戻り、再び1週間のクルージングの間に残りの仕事と調整、トレーニングをする事になる。

それ以降の仕事の進行状況は日本に帰ってからのメールのやり取りで確認していた。

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2009年11月 4日 (水)

豪華客船での仕事inニューヨーク・・・ニューヨークに帰港

1週間の船旅を終えて日曜日の朝にニューヨークの同じ桟橋に戻ってきた。この船は昼までに乗客を降ろし、また夕刻に同じコースのクルージングに出るのだ。

仕事は途中までしかできなかったが次の人に仕事を託して私は帰国する事にしていた。

船が岸壁に接岸する相当前からタラップが付けられるロビーの周りには下船する人達がたくさん集まってゴッタ返していた。勿論私もその中にいたわけだが、その前に船の中でしか使えないクレジットカードの清算をしなければならない。

ロビーのカウンターの前には大きな精算所が出来ていて、皆カードを出して清算していた。私もその列に並び清算したが、食事の時に飲んだビールの費用と記念に取った写真代を合せて10数ドルの清算だった。

相棒のジョン次の航海にも乗船するのだが、一旦清算しなくてはならず、彼も私と同じぐらいの額の清算だった。

クルージングでは船中で買い物さえしなければ、食事は無料だしさしてお金が掛からないと言う事を初めて知った。

以前にプエル・ト・リコに出張した際、現地の販社の担当者が家族揃ってカリブ海のクルージングをしたがそんなに高くなかったと言った事を思い出した。豪華な船室を選ばなければ結構安い金額で十分にクルージングと観光を楽しめるものなのだ。

アメリカで退食した社会人や退役軍人たちが家族でクルージングをするのが流行っているが、大きな船で快適にしかも安価に旅行ができるのだからブームになるのも分かる。

日本でも最近はクルージングの広告を多く見る様になったが、アメリカや諸外国に比べるとまだ旅費が高い。もっと安くなれば多くの人が利用する様になるだろうし日本人の観光パターンが変わってくるだろう。

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2009年11月 2日 (月)

豪華客船での仕事inニューヨーク・・・あいまいな記憶

こうして寄港地を書いていると自分の記憶が随分あいまいだと言う事がわかる。下の地図を見てもらいたい。このうちで港の岸壁に接岸できたのはボストンとハリファックスしかない。

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最初にニューヨークを出港した時にはフレームが乗っていなかったし次の寄港地で積み込んだと書いた。これも間違いないで2番目の寄港地ボストンだったの可能性が高い。

岸壁に接岸できなければ大きな荷物をクレーンで持ち上げられないのだからニューヨークに一番近いニューポートで搭載できるはずがないのだ!!

記憶にはないが、恐らくこの地図の通りに

ニューポート、ボストン、バーハーバー、セントジョンに寄航し最終目的地のハリファックスを出航してからニューヨークに直接帰ってきた可能性が高い。

微かな記憶だが最後の日はハリファックスを出てから一日中走って記憶がある。ハリファックスからニューヨークまでは直線距離で約1100キロだ。船の速度が25ノットとすれば1時間で約45キロ走る訳だから24時間では約1100キロになる。

ニューヨークに帰港したのが日曜日の朝早くだったからハリファックスは土曜日の朝か金曜日の夜中に出航し、速度を調整しながら走っていのだろう。

僅か5年前のことだが、人間の記憶と言う物はこんな不確かな物だと言う事が改めて感じられた。

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