2009年12月16日 (水)

危険な防火用水池で遊ぶ

広い校庭の一角にはまだまだ遊ぶ場所がたくさんある。校庭のはずれ、とは言っても大きな敷地の真ん中辺りの並木の陰に5メートル×10メートルぐらいの防火用水池と思われるものが二つ有った。この防火用水池の深さは分からないが、学校からは「危険だから近づくな」とよく言われていた。

しかし、子供には格好の遊び場だ。雨水や天然の水でいつも満杯だったこの防火用水池は見た目には水が緑色に変色していて綺麗ではなかった。しかし、遊べるものはたくさん有った。ミズスマシ、ゲンゴロウなどはたくさんいたしザリガニまでいた。これは誰かが話したのだろう!!

子供が放っておくはずがない。休み時間にでもなるとこの防火用水池に行き、棒でミズスマシを追いかけたり、水面に浮かんでいる木の葉を叩いたりして遊んでいた。

放課後等はパンツ1枚で泳ぎだす男の子もいる始末だ。さすがの私も水の汚さから中には入る勇気はなく見守るだけだった。しかし、誰一人として先生に言いつける子供はいなかった。

私達は家から煮干やスルメの足を持ってきては糸に縛り付けてザリガニを釣っていた。釣れてもまた直ぐに放すので大きなザリガニが面白いように釣れた。

こう言う遊びは今の子供達には到底考えられないだろう。学校の庭にこう言う危険な防火用水池があるはずもなく、水溜りがあればそこに入れなくするような柵を付けるだろう。

そう言う意味で、我々の子供の頃はおおらかで子供本来の好奇心を満たす遊びができたし、それにより体や精神が鍛えられていったのだろう。

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2009年12月14日 (月)

森の中でターザンゴッコで遊ぶ

旧軍隊の兵舎が学舎で有ったため、軍隊の設備が色々とそのまま残っていた所で遊んでいた。

校庭の真ん中、と言っても幼稚園、小学校、中学校、大学の寄宿舎と併設された広い敷地の中の一角に旧軍が作った小さな神社が有った。

この神社は一辺が50メートルぐらいの正方形の敷地にあり、周辺は高さ70センチメートルぐらいの土手で仕切られ、中は色々な木々でうっそうとしていた。その中央には石で作られた高さ2メートル位の社が有った。

子供の遊び場としてはモッテコイの場所だ!! かなり大きな木があり、最も大きく多かったのは椎の木だった。椎の木には秋になると椎のみがなり、これも子供達にとっては食べ物としては大きな魅力だった。

大きな椎の木の枝にロープをかけて、これにぶら下がり揺さぶりながら社の屋根に跳び移るターザンゴッコが当時の私達の主な遊びだった。ロープの切れる可能性があるのもそっちのけ、屋根から落ちそうになっても必死にしがみつくなど危ない事も有ったが、我々はターザンごっこに熱中していた。おそらく現在ではこんな事をしたら学校から大目玉を喰うのは常識だが、当時の男の子の遊びとしてはごく当たり前の事だった。

木や社の屋根、ロープから落ちるような運動神経の鈍い子供はいないし、かえってそう言う遊びが子供達の運動神経を良くして行ったのだろう。現在の子供達は木登りも出来ず、反射神経も鈍いし全く可哀想だ。もっと奔放に遊ばせてやればたくましい子供達が育つと思うのだが!!

勿論学校側も知らなかったと言う事はないだろう。現在のように子供が遊んでいて怪我をしても学校にクレームをつけるような親は居なかったから出来ていた事だと思う。

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2009年12月 9日 (水)

床下で銃の掃除道具を見つける

子供の頃は何処でもかしこでも遊び場だ。私達の場合は広い敷地がありそこでも十分に色々なことをして遊べたが、元兵舎だった建物の中の探検も最も興味のある遊び場だった。あるときは立ち入り禁止の倉庫の中に入ってしまったり、天井に上ったり、床下にもぐったりもした。

ある時、床下の換気用の穴から数人で床下にもぐって探検していた。そこで、あるものを発見したのだ。袋(小さなバッグ)に入った銃の掃除道具だ。床下ではただ単に袋だと思って開けなかったが表に出てきてから皆の注視の中であけてみた。

中からは布切れやら煙突掃除に使うようなブラシの小さい物が出てきた。このとき初めて、これが銃の掃除道具だと分かったのだ。

恐らく兵隊が終戦前に床下に投げ込んだのか隠したのだろうが、何のためにこの様な掃除道具だけを隠したのか不思議に思った。

これをきっかけに、皆で床下にもぐりこみアチコチを探したのだが、幾つかの掃除道具を発見したもののその他の物は発見できなかった。

兵隊の一番大切にしなければならない銃の掃除道具が捨てられていた。或いは隠されていたと言う事を同判断すればいいのだろう。いまだ分からない。

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2009年12月 7日 (月)

不自由しなかった遊び場・・戦争ゴッコ

先日は戦車の中で遊んだ事を書いたが。私の周りにはその他の戦時中の残骸があったり、広い広場があったりで遊び場には不自由しなかった。現在の子供のように遊び場が無いと言うことはなかった。

その一つが校舎の並びに有った広い荒地だ。この荒地の中には何に使ったか分からないが塹壕のような凹みがたくさんあってカクレンボや戦争ゴツコをするのにはもってこいだった。

恐らく訓練用の塹壕のあとだったのではないかと思うが、そのままの形で残っていて、ここで二手に分かれて戦争ゴッコをするわけだ。勿論危険なものは何も持っていない!! この凹み(塹壕)をうまく使って相手の背後に廻って取り押さえれば勝ちだ。

凹みの中を伝わって走ったり這いつくばって乗り越えたりと色々な運動ができる。そうしていても着ているものをあまり汚さずに済んだ。夏は草がボウボウと生えていたし、冬になればこの草が枯れてへこみを覆っていたから転ぼうが寝転がろうが草は付くものの泥が付くような事はなかった。

校舎とこの遊び場が近くに有ったのでチョッとした休憩時間や昼休み、放課後には男の子は自然と皆が集まって暗黙の様に二手に分かれて活発に動いていたのだ。

そのお陰か、我々のクラスには運動音痴等と言う言葉は存在しなかった。皆が自由に這いばり、凹みを上り、走り回る。そうしたことが自然と運動能力を高めて言ったのだろう。

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2009年12月 4日 (金)

戦車の中で遊ぶ

私達家族が朝鮮から引き揚げてきた先は祖父母が住む千葉県の千代田町(現在の四街道市)だ。この町は母親の実家がありそこに居候する形になっていた。

四街道市は軍都として発展した町だ。私が学んだ幼稚園、小学校、中学校もこの軍隊の敷地や建物を利用していた。

私達が引き揚げてきて間もない頃はまだ戦時中の置物(残材)がいたるところに見受けられた。その一番大きかった物が戦車の残骸だ。

戦車の残骸は駅の反対側のもの置き場に放置されていた。現在では駅の裏口も立派に整理され民家が立ち並んでいるが、当時は軍用の引込み線があり、その近くに5~6台の戦車が砲塔の蓋もなく雨ざらしになっていた。私の家は駅の直ぐ近くで有ったため、この戦車が格好の遊び場になっていた。

友達数人と良くこの中にもぐりこんで遊んでいたものだ。戦車には独特の匂いが有った。油(グリース)の匂いだ。今もこの時の匂いの感覚は思い出せる。戦車に近づくとこのグリースの匂いがしてきて男の子には何ともいえない感じだった。キャタピラーは壊されては居たものの、伸びきった状態で地面に這いつくばっていたし、戦車砲もそのまま残っていた。

戦車砲に上り、砲塔から中に入って色々と動く物を動かしてあたかも戦車を操縦している気分になったものだ。しかし欠点が一つ有った。手が油だらけになることだ。同時に衣類に付着したり匂いが残ったりして直ぐに母親に戦車で遊んでいた事がばれてしまう事だ。

当時は遊び場がたくさん有ったが、遊び道具がないために戦車はその遊び道具の一つで有ったのだが、母親は「危ないからあそこで遊んでは駄目だ」と注意をしていた。しかし、我々も男の子だからそんな事を無視して戦車を格好の遊び道具としていた。

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2009年12月 2日 (水)

飛行服の中でカクレンボ

父親が陸軍のパイロットで有ったため家に旧陸軍の飛行服が有った。昔の飛行機には与圧装置等ないからパイロットはモロに外気や外気温に当たる事になる。寒さ対策のため飛行服は厚い布でできていて、更には内側や襟の部分には高級な毛皮で覆われていた。外観上は現在のつなぎの作業服に似ているが生地も良いし、相当に高級にできていた。

この飛行服が家の2階の畳の上に良く無造作に転がっていた。恐らく虫干しをしていたのだと思うのだが、子供の私達から見れば格好の遊び道具だ。特に中に入れるしカクレンボには持って来いの

遊び道具だ。

妹や近所の子供と遊んでいる時にこの飛行服を見つけると必ずと言っていいほど誰かがこの中にもぐりこんでいる。頭からスッポリと入っているために中はかなり暑い!!

それでも子供心ではいい隠れ場所だと思い暑さを堪えて必至に隠れている。見つけるほうからすれば普段平たい服がこんもりとしているのだから、誰かが入っているのは直ぐ分かるのだが、内側からは開けられないように必至に頑張っているのだから尚更暑くなる。その内に耐えられなくなって出てきてしまう。

まぁ、子供の頃の思い出としては楽しい物だ。飛行服がその後どうなったのかは分からない。

今持っていたら相当な貴重品だろう。

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2009年11月30日 (月)

悪戯坊主だった幼稚園の頃の思い出

朝鮮で終戦を向かえ、その年には何とか帰国していた、父は軍人で有ったためそのまま抑留されたが長い抑留ではなく追いかけて帰国していた。

恐らくその翌年だと思うので私が5歳ぐらいのときだと思う。近くの国立大学の付属幼稚園に入園することになった。私はかなり活発で悪戯坊主だったようだ。

国立大学は軍隊の広大な敷地の中にあり、幼稚園から小学校、中学校をこの敷地内に持っていた。
まさに森あり、谷ありのような敷地の中に点々と兵舎や車両の格納庫、防空壕などが点在していた。

園舎はその中のあまり大きくない一つを利用していた。しかし、園舎の前には野球グランドが二つぐらいできる広場が有り、その他に、テニスコートが2面、200メートルのトラックが1面、バスケットボールのコートが1面、中央に石のお宮がある鎮守の森のような木が茂った一角があり遊ぶのには十分な広場が有った。勿論、幼稚園だけで使っているわけではなく、小学校、中学校との共用だ。しかし、それでも十分な広さが有った。

教室は兵舎をそのまま使っていたので広くて窓もたくさん有り、窓までの高さも今の学校や幼稚園に比べると高かった。

ある時、男子園児の1人が開け放たれたその窓に上り、外に向かってオシッコをした。それが子供達の間で大騒ぎになり先生まで知れ渡る事になった。早速先生がやってきて、その園児を叱って、なぜその様な事をしたのかを問いただした。その園児は何と私に命令されてやったと言ったのだ。

私には全くその様な覚えはなかったが、私まで巻き添えにされて叱られてしまった。
恐らく、その園児はガキ大将だった私に言われてやったと言えばそんなには叱られずに済むとでも思ったのだろう。こちらはとんでもないトバッチリを受けたが、当時の私がガキ大将で悪戯坊主だった証だろう。

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2009年11月28日 (土)

64年前の話in テジョン 2

幼心に覚えている事がもう一つある。それは、良く近所の家の子供達と遊んだ事だ。

近所の子供とは同じ様な官舎に住んでいた家族の子供であったり、近くの民家の子供達だ。

この頃は朝鮮半島が日本の統治下にあり朝鮮人も創氏改名で日本名を名乗っていたのだろうが、近所の子供は朝鮮人の子供も含まれていた。

私には誰が官舎住まいの子で誰が朝鮮人の子供であれどうでも良かった。子供同士で泥んこになり遊びまわる事で満足していたし、母親も父親も「あの子とは遊ぶな」とは決して言わなかった。

官舎住まいの子供達は軍人の子供であり比較的裕福な環境に有ったことは事実だ。私も大きな三輪車を持っていて、これを皆に使わせる事でガキ大将になっていた様に思う。

当時、三輪車と言えば高級な遊具だ。皆、列を作り並んで順番を待っていたし、楽しく遊んでいた。

これは自慢している訳ではなく、日本人も朝鮮人の子も皆等しく同じ遊具で遊べたという楽しい思い出だ。

私の頭の中にある記憶では、その遊んでいる近くに大きな柳の木があり、近くにはナツメの木が有った様な気がするのだ。柳の木はそれほどインパクトはないのだがナツメは実が食べられる。

皆でその実を食べた記憶がある。赤くて可愛い実だが、何処となくリンゴのような感じの触感を今も思い出せる。

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2009年11月26日 (木)

64年前の思い出話in テジョン

テジョンとは韓国の大田のことである。64年まえに私達家族は私の父の仕事(陸軍航空隊の将校)でテジョンの近くのユソン(儒城)で生活していた。私が4才ぐらいのことだから確かな場所は分からないが、私の脳裏に焼きついている川の景色や山(?)の景色が後日仕事でユソンを尋ねた時にピッタリと一致したので間違いないと思う。

ユソンは現在でも温泉で有名だ。その頃の記憶も豊富な湯量の温泉に毎日浸かっていたので100パーセント間違いなくユソンで暮らしていたのだろう。

この頃は軍隊の官舎での生活と温泉施設での生活の思い出があり、官舎での生活の中で一番の思い出は相当に悪い悪戯をしたことだ。

当時私には二つ離れた妹がいて、妹はヨチヨチと歩いていた。私はこの妹に台所にある茶碗やお皿を運ばせて窓から落として割れるのを面白がっていたのだ。

官舎は平屋建てで窓の下はジャリが引いてあった。窓から茶碗や皿を落とせは当然この砂利の上に落ちて大きな音を出して割れる。私はこれを面白がってやっていたのだ。

妹は何も知らずにヨチヨチと台所から運んでくるだけで私1人が面白い思いをしていたのだ。

ここまでは覚えているが、当然叱られただろうその時のことは全く覚えていないのは不思議な事だ。

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2009年11月24日 (火)

ブリュッセルにも有った飾り窓

長いことベルギーで仕事をしている間にブリュッセルに駐在していた甥っ子とブリュッセルの観光をしたことは前に書いた。この時初めて目にしたのが「小便小僧」と「小便少女」と言うこともその中で触れた。

そのときに書かなかった事が「飾り窓」の事だ。

ドイツのハンブルグ、オランダのアムステルダムの「飾り窓=レッドライト」はあまりにも有名だが、何とブリュッセルにも「飾り窓」は存在していた。

甥っ子と昼食をとりアチコチ観光していると日も暮れてきた。甥っ子が「飾り窓があるから見に行こう」と言うので彼の車に乗って見に行った。確かに飾り窓は存在した、が、アムステルダムの「飾り窓」に比較すると何と細々と営業している事か!!

アムステルダムの場合は町の一角が全部「飾り窓=レッドライト」やアダルトグッズのお店であり、その一帯が観光地化しているのに対して、ブリュッセルの場合は薄暗い町の中にポツリ、ポツリとレッドライトが付いているだけで、ここだと言われなければ分からないし状態だった。

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それでも店の前を車で通るとピンクの光の中の小部屋に座っていたから間違いなく「飾り窓」なのだ。オランダのように公然と認められているのか、はたまた、日本や韓国の様に法律で禁じられていて違法に操業しているのかは分からない、しかし、厳然と「飾り窓」は存在していた。

世の中で一番古い商売と言われる「性商売」だから、恐らくヨーロッパでは何処の町にでもあるのだろうがブリュッセルのこの様な「飾り窓」を見て正直驚いた。

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